原田まりるさんと哲学「ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた」
哲学エンターテインメント小説!
この本を読むと得られる事
哲学の面白さがわかります。
ニーチェの言葉を理解し、生活に活かせる様になります。
自分の価値観で生きる大切さがわかります。
原田まりるさんをご存知でしょうか。
元レースクイーンオブザイヤーで、元アイドルで、現執筆家という経歴の持ち主。
頭の回転が早い方でトークも面白く、ぼくも好きな芸能人の1人です。
現在は哲学ナビゲーター、作家などの執筆業を活動の拠点とされてます。
レースクイーンになったのも大学の教授のアドバイスで、知名度を上げて本を出版する為だとか。スゴイ。
「頭文字D」を読んで影響を受けてA級ライセンスを取るなどぶっ飛んだ方で面白いです。
そんな原田まりるさんが書かれた哲学をテーマにした小説です。
ニーチェ、キルケゴール、ショーペンハウアー、サルトルなど多くの哲学者が登場します。
原田さんの「推し哲」はショーペンハウアーとキルケゴールです。
祝福できないならば呪うことを学べ
主人公は京都に住む高校生アリサ。
どん底に失恋しております。好きな人が部活のお世話になっている先輩とウデを組んで歩いていたのです。
そんな時にTwitterで見かけた言葉
「祝福できないなら呪うことを学べ ニーチェ」
に引き付けられます。
もし周りにこういう事をズバッと言ってくれる友だちがいたら、こんなに落ち込まなくて済むのかな。
そして帰り道に縁切り神社でニーチェの言葉を繰り返したのでした。
話はここで急展開で、その願いを受けてニーチェが目の前に現れます。
アリサの悩みを聞いてくれるというのです。
「その好きな人と先輩を応援しなきゃと思うけど…」
「なぜ応援したいのだ?」
「そりゃ人として、人を恨んでばかりじゃダメだと思うから」
「それは自分の欲求か?」
ニーチェ曰く、それは道徳に支配されているのです。
二人のことを応援出来ないという「自己中な自分」と、二人のことを応援しなきゃという「非利己的な自分」のうち、「非利己的な自分」を神聖化しているだけなのです。
つまり、自己中な人間なのです。
しかし、自己中ではいけないと思い込んでいる。「自己中ではいけない」という道徳に縛られているだけなのです。
ではなぜ、他人の事を考え、道徳を守ることが大切なのでしょう?
「そうしないと人と上手くやっていけないでしょ?自分勝手な人間にもなりたくないし」
「つまりはすべて自分の為にという事か」
「違うよ、人の為でもあるよ」
しかしニーチェは否定します。
自分勝手な行動を避けることで、他人と上手くやっていく為で、自分の自尊心を高めるだけでもある。
つまり自分の為にエゴで「自己中でない自分でいる方がいい」と思っているに過ぎないのです。
「安心しろ、アリサ。私はなにも自己中な人間が良くないとは言っていない」
本来人間とは、利己的で自己中な生き物なのです。
自分がより良く暮らすために他人を蹴落とすのはごく自然なことです。摂理です。
それでも自己中は良くないという「風潮」があります。
ニーチェはここに不自然さを覚えるのです。
本当は自己中なことが悪いことではないのに、悪いとされていて、その風潮は作られたものだと言うのです。
奴隷が良いとされていた時代もあれば、戦争が正義とされていた時代もあります。
善悪の基準は普遍的ではないのです。
これは多数の賛同が得られている意見が「良い」と条件反射的に思ってしまう事で、珍しい事でもありません。
それを「畜群道徳(ちくぐんどうとく)」と呼びます。
みんなが受け入れているから良い事と思い込むこと。
ブラック企業で働いていても、その会社の勤務状態に疑問を持たず、むしろ頑張ろうとする人は、まさに蓄群道徳と言えます。
「そっか、みんなと同じことだから大丈夫、と思い過ぎると危険な事もあるのか」
「そうだ。習慣的に周囲に合わせていると、自分で考える能力を衰えさす事にも繋がる。
すべての習慣は、我々の手先を器用にし、我々の才知を不器用にする」
むやみやたらに反抗しろという訳ではありませんが、他人から言われた事を鵜呑みにするのではなく、一度疑う事で自分なりに考える事が重要なのです。
「祝福できないならば呪うことを学べ」
これは祝福できない自分を恥じて、自分を否定することはない。
徹底的に呪ってもいい。自分の気持ちを誤魔化すことなく生きよ、というニーチェの教えです。
情熱をもって生きないと、自分の世界は妬みに支配されてしまう
アリサはニーチェの紹介でキルケゴールにも会うことになりました。
美しいものと哀愁が好きというキルケゴール。
「哀愁か。あまり考えたことなかったな。明るいことやポジティブなことを考える方がいいと、なんとなく思っているから」
「なんとなく、ですか」
キルケゴールはここで「主体的真理」について語り出します。
例えば、ゴスロリファッションが好きで、追求してるとします。
しかしそれは自分にとってのお洒落であって、流行とは関係ないです。
主体的真理とは、「自分にとっての真実」といった意味合いです。
流行りのファッションを取り入れたとして、それが自分にとって「ちょっとダサいな」と感じたなら、ダサいが主体的真理になります。
自分にとってどうか、という意見ですね。
キルケゴールにとっては、哲学にありがちな「国家とは」「神とは」とかはどうでもいい問題なんです。
ただ、自分が生きる上で神を信じた方が、生きる事に真摯に向き合えるから信じたい。
そう聞いているとアリサも自分の人生がとてもロマンチックなものに思えてきました。
高校、大学、就職、結婚となんとなく決まったレールの上を進んでいく人生をなんとなく過ごすだろう。何の為になんて考えてこなかった。
今までは何の為に生きているか、よりももっと現実的なことに目を向けてきたからです。
現代は「主体的真理」を追求するのではなく、「客観的真理」を鵜呑みにしがちです。
例えば家族のあり方を嘆くのも、「家族はこうあるべき」という客観的真理で考えているからこもしれません。
自分の意見をしっかり持って何かに情熱を注ぐ人がいても、大衆とズレていたら軽蔑されてしまいます。
大衆からすると、個性を持って主体的に生きている人は「妬み」の対象になっているのです。
バカにする人は、自分の人生ではなく、他人の人生を妬む事に時間を費やしてしまっています。
つまり、「情熱をもって生きていないと、自分の世界は妬みに支配される」と言えます。
胸を張って、自分の人生をフルに生きてきたと言えるでしょうか?
全然でした。反省します。
「誰かに見せる為の人生ではなく、自分が情熱を燃やせる人生を私も生きたい!」とアリサも思うのでした。
「ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた」を読んでやってみた
座右の銘はニーチェだった
「六本木クラス」というマンガが好きです。
そこに出てきた引用された言葉で、
「今この人生を、もう一度そっくりそのままくり返してもかまわないという生き方をしてみよ」
というのがあって、これを読んだ時マンガの興奮も相まって、ハンマーで殴られたような衝撃を受けたのです。
俺はもう一度繰り返せるんかな…。
良い言葉やなあと思い、それ以来、この言葉を紙に書いて壁に貼って見ていました。
これ、ニーチェの言葉でした。
この本を読んだ時出てきてびっくりしました。
「永劫回帰」という思想の話で、辛い事も悲しい経験も受け入れるというものです。
そして、辛い事の中にも喜びを見つけて、自分の人生でよかった。またこのような人生を送りたいな、と誇れる生き方をする事が大切だというのです。
それだけでなく、後悔しないように最善を尽くして生きていく。
「人生は無意味で無駄だ」ではなく、「人生は無意味だから、自由に生きてやれ」と積極的なニヒリストとして生きてやれば良いのです。
「今この人生を、もう一度そっくりそのままくり返してもかまわないという生き方をしてみよ」
この言葉を忘れずに頑張ろうと改めて思ったのです。
非常にわかりやすく説明された本です。マンガ化もされてます。
読みやすい方で是非読んでみて下さいね。
著書名 ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。
著者 原田まりる
出版社 ダイヤモンド社