「人をひきよせる天才 田中角栄」多くの格言から学ぶ人心掌握術
これぞ人たらしです
この本を読んで得られる事
- 上に立つものは細やかな心配りがあってこその人心掌握が学べます。
- 即断即決を心がけ、やると決めたら即行動の効果がわかります。
- そして日々勉強し、己を磨く大切さが学べます。
戦後最強の首相は誰か?とアンケートを取ればおそらく1位になるであろう人、「田中角栄」。
54歳最年少総理大臣、小学校卒で首相になった、今なお日本の成長戦略の土台となっている「日本列島改造論」。
まさに主人公属性。
生い立ちも波乱万丈。小学生の時はオール5を取るほど勉強が出来た少年でした。
しかし貧しい家に生まれたので、小学校卒業後は土方として朝から晩まで働きます。
その働き者の気質は母フメさんから譲られたもの。角栄さんは子供の頃、お母さんの寝顔を見た頃ありませんでした。
暑い夏も1日も休まず働きました。
そして16歳で上京すると、建築会社で働きながら猛勉強をし、建築や製図を学んでいきます。
19歳で建築事務所を起業し、成功への道を開きました。
そこにもフメさんに教わった教訓が活きています。その言葉を胸に刻みつけて頑張り、生涯に渡って守り続けました。
「人間には休養が必要だ。ただ、働いてから休むんだぞ」
「金を貸した人の名前は忘れても、借りた人の名前は絶対に忘れてはなんねえよ」
そして1946年、会社顧問の元国務大臣大麻氏の推挙で初めての立候補を決意します。
しかし結果は大失敗…。参謀に抜け駆けで立候補され、応援していた地元有力者の着服。
しかし角栄さんはへこたれません。もう一度出馬します。
今度は選挙区に支社を作り地元の人を1000人以上雇用するという徹底的な選挙活動を行います。
選挙を事業化し、企業ぐるみでの選挙戦を挑んだのです。
また、地元が大雪で電車が止まった時も、歩いて演説会場を回るなど、寝る間も惜しんで活動します。
そして見事当選したのです。
議員になってからも角栄さんは猛烈に勉強に励みます。
13年間でなんと33本もの議員立法を成立させたのです。
この数字は前代未聞で、いまだに破られていません。
そして1957年、39歳で郵政大臣に抜擢されます。
これも戦前戦後を通じて最年少です。もちろん異質な新大臣に省内は冷ややかです。
しかし角栄さんは自分から省内を回り、「いよう、やっとるか」と気さくに声を掛けてきます。これには官僚もびっくりです。
さらに一緒に働いた官僚は驚くことになります。
普通新任の大臣のレクチャーには1ヶ月掛かるのですが、角栄さんは1週間足らずで理解して問題点も的確に指摘してくるのです。
そうして郵政官僚たちは次々と角栄さんに心酔していくのです。
この時の角栄さんは当時成長していたテレビ業界に対し、電波利権の問題を解決。この手腕を買われて大蔵大臣に抜擢されます。
大蔵官僚の大半は東大法学部卒のエリートたち。小学校卒の角栄さんがどう出るのか待ち構えています。
ここで有名な初任挨拶が出るのです。
「私が田中角栄だ。ご存知のように小学校の高等科しか出ていない。
諸君らは日本中の秀才代表であり、財政金融の専門家揃いだ。
私は素人だがトゲの多い門松をたくさん潜ってきて、いささか仕事のコツを知っている。
一緒に仕事をするには互いによく知り合うことが大切だ。
われと思わん者は誰でも遠慮なく大臣室に来てほしい。何でも言ってくれ。
出来る事はやる。出来ない事はやらない。
しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う!以上!」
角栄さんは、大蔵官僚の名前や顔はもちろん、入省年度に公務員試験の席次まですべて頭に入れます。
さらに冠婚葬祭から妻の病気、子供の大学入学のタイミングまで調べ上げ、その都度祝いや見舞いをしました。
こうした細やかな心遣いをされると、大蔵官僚たちも心を許さずにはいられなかったのです。
その多忙な日々の中でも陳情客となまで触れ合い、角栄さんには今後の課題がはっきりと見えてきました。
国土改造論に着手した角栄さんは、経済企画庁の役人、気鋭の官僚、学者などを招集。
こうして完成した「都市政策大綱」は自民党の出版物としては異例のベストセラーとなり、角栄さんの名は全国区の存在となったのです。
続いて、「都市政策大綱」をわかりやすくした政策書を作ります。
高速道路や新幹線の整備など生活インフラの整備が必須と説いた「日本列島改造論」を発表したのです。
これも折からの角栄人気も手伝い、空前のベストセラーとなりました。
そして運命の1972年自民党総裁選、角栄さんは福田赳夫さんとの決戦の末、内閣総理大臣となったのです。
それまでの歴代総理はいずれも帝国大学卒の高級官僚か、陸海軍大学出身の軍人がほとんどでした。
小学校卒が最終学歴の男が苦学力行の末に、政界のトップにまでなったのです。
「人をひきよせる天才 田中角栄」を読んでやってみた
今なお語り継がれる格言の数々
「初めに結論を言え。理由は3つに限定しろ。
この世に3つまででまとめきれない大事はない」
これは秘書や事務所のスタッフに角栄さんが日頃から言ってた持論です。
角栄さんの自宅には連日、陳情客が多い時で300人もやってきました。
角栄さんは「わかった!」を連発しながら次々さばいていきます。
一人当たり3分。しかし決して安請け合いはせず、一度決めたら頭をフル回転させて即実行していきました。
角栄さんが「コンピュータ付きブルドーザー」と言われた所以です。
ううむ、色々学べました。
結論からって忘れがちです。そして即実行もやっぱり大切やなと。
「やってみた」はこのブログのテーマでもあるので、ゴリゴリ行動していこう。
「飯時にはしっかり飯を食え。シャバには良いことが少ない。
それを苦にしているようではダメだ。腹が減っていては、大事な時に戦は出来ない」
これは陳情客やスタッフに事あるごとに言ってたそうです。
「おい、飯は食ったか?」が角栄さんの口癖でした。あったかいなと思います。
食べてない人がいれば誰構わず座敷にあげてご飯を振る舞って、自分もそう食べてなかったら一緒に食べたそうです。
そらこんなんされたら惚れてまうわー。
「祝い事には遅れてもいい。ただし葬式には真っ先に駆けつけろ。
本当には違う悲しんでいる時に寄り添ってやる事が大事だ」
角栄さんは政敵の悪口は絶対言わないし、葬儀にも難波差し置いても駆けつけてました。
自民党の松野さんは反田中派の先頭でしたが、奥さんが亡くなった際に、角栄さんが誰よりも早く葬式に駆けつけて以来、あまり批判的な事は言わなくなったそうです。
天敵であった社会党委員長の河上さんが亡くなった時は、12月の雨に打たれながら、2時間も野辺送りをしました。
敵対した立場を超えて、国の為に尽力した同志として見ていたのでしょう。
この姿勢も見習いたいですよね。
ほんと組織のリーダーとはこういう人なんやろなと思えました。
その本には総理になられてからのエピソードも多く収録されています。
是非本でも読んでくださいね。
著書名 人をひきよせる天才 田中角栄 【合冊版】 (カルトコミックス)
著者 木村周司
出版社 笠倉出版社